
『TOKYO ALEWORKS 東京名所シリーズ:板橋ヒイルラガー編』
第一幕:浮世絵の恋
「はあ……」
ジャックは深いため息を吐く。思いを寄せていた女性にフラれて落ち込んでいた。今日のビールの仕込みを終え、出来上がっていたビールを何杯か飲んでから、ブルックリン美術館の脇にあるボタニック・ガーデンへとほろ酔い加減で歩いて行った。ジャックはこの植物園が好きだった。桜の樹が植えてあるからだ。
彼はブルックリンの醸造所で働くブリュワーで、生粋のアメリカ人にしてニューヨーク育ち。日本という極めてエキゾチックにして個性的、文化的な国にずっと遠い憧れを抱いていた。
花は桜木、人は武士。
春に桃色の花を咲かせてすぐさま散りゆく桜には確かに何かの感動を覚えるし、それに重なる日本の武士の生き様にも憧れるものがあった。だからジャックは、自分も日本の侍のようになりたいとブルネットの長髪を後ろで束ねていた。
ボタニック・ガーデンの桜はまだその蕾すらも姿を見せていない。もう少し酔いたいと思ったジャックは、植物園を出て馴染みのビアバーに向かった。公園を突っ切るフラットブッシュ・アベニューをまっすぐ南に進むとテリーのバーが見えてくる。店内に入ると、カウンターの向こうからこの店のヘッドブリュワーであるテリーがそっと顔を覗かせた。
「ハイ、ジャック。最近顔を見せなかったな」
ジャックは「仕込みが立て込んでいてな」と返し、いつものラガーを頼んだ。続けて何杯か飲んで酔いが回って来た頃、テリーが「ちょっと見せたいものがある」と一度店の裏に下がった。なんだろうかと待っていると、戻ってきたテリーの手には一枚の絵。「こいつを今度、店内に飾ろうかと思っている」と話す。
その縦長の絵は、日本の浮世絵だった。無地の金色の背景に、薄いピンク色の着物をまとった女性が背後からのショットで描かれている。たおやかに広がる着物、そこに散りばめられた花模様、ゆるく結ばれた美しい黒髪が肩に垂れ、顔は半分だけこちらに覗かせている。
テリーは「いい感じだろ」と誇らしげだ。絵を手渡されたジャックは、その女性の横顔に目を奪われた。振り返る涼しい目元はどこか悲しげな哀愁を帯びつつも、何かを愛しむかのような温かい眼差しがある。惹き込まれた。
「ああ、この女性に会いに日本にいきたい」
あまりの唐突さに冗談だと思ったのか、テリーが大笑いする。しかしジャックは本気だった。もういい歳だが、結婚はしていないし、恋人と呼べるような存在だって長らくいない。運命だと、ジャックは心からそう思った。
それからジャックは、身支度を整え、すぐに日本行きの航空券を取った。きっと待っているであろう浮世絵の美人、その出会いへの期待感を胸に。
第二幕:運命の“縁”
たどり着いた憧れの地、江戸東京。ジャックが宿を取ったのは中山道だ。その昔、江戸の玄関口と言われていた板橋宿だった。宿場町で交流の要所だったというその歴史性もさることながら、交通の便も良い。旅人には絶好の地だ。
板橋の名所である結びのけやきから、古い街並みの商店街を歩いた。着物姿の日本人が闊歩している。思い描いていた通りの日本らしい風景を眺め、時差ボケによるふわふわ感もあってか恍惚としながら歩みを進める。
近くの川沿いには桜の樹が立ち並んでいて、ぽつぽつと蕾をつけていた。ふと目をやるとその沿道に、壁全体がガラス張りになった店がある。店の半分には大型のタンクが置かれ、醸造所併設のビアバーだということがすぐに見てとれた。先ずは日本のビールを堪能するかと思い、迷わず店に入る。
ガラス張りなおかげで明るい店内。窓際のテーブル席には旅人らしき酔客が何人かビールを飲んでいて、江戸東京の玄関口を感じる。
ひとまずカウンター席に近づき、「こんにちはでござる」と侍気取りの日本語を発した。その声が届いたらしく、カウンターとバックヤードとを仕切る暖簾をくぐって一人の女性がやってきて、「はあい、いらっしゃいませ」とジャックに微笑みかけた。薄いピンク色の着物にたすきをかけ、決して長くはないが艶のある黒髪を自然に垂らした、隈のない白い肌の女性。その涼やかな目元。瞬間、ジャックの体は強張り、そして熱くなった。
「お一人さまですか? お好きなところにお座りください」と声をかけられる。
「ああ、YESでござる」
と、思わず英語と日本語が入り混じった言葉を発してしまい、まじろぎながらカウンターに座った。その返答に黒髪の女性店員は、「ぷすっ」と口を押さえて微笑み返す。
タップリストに目を通すと、聞き覚えのない「ヒイル酒」というビールがあった。注文を告げると、ヒイル酒ですね、と直ぐさま彼女はそれを注ぎ始める。 「お待ちどうさまです」
彼女が目の前にパイントグラスを置く。ジャックはそれを掴み、くっと飲み込んだ。少しほろ苦くスッキリとした喉越し。ほんのりクリーミーで膨よかな味わいが、実に美味かった。これが日本のビールなのかと、頷いた。
「いかがですかぁ」 「はい、デリシャスでござる」
またもや何語とも言えない言葉を発してしまう。
「私もこのビール好きなんです」。そう言って彼女は微笑み、東京では明治六年に板橋で初めてビールが造られ、当時「ヒイル酒」と呼ばれていたことを説明してくれた。
彼女は次の注文に応えるため一度ジャックに背を向けた。ビールを注いでいると、別の席から彼女に声がかかる。黒髪の彼女はかすかに振り向き、はあい、と振り返った。
「!?、 オーマイゴッ……」
その瞬間、ジャックの胸にショットガンの弾が撃ち込まれた。薄いピンク色の着物、黒髪、美しい肌、振り返る横顔。それはまさに、あの日見た浮世絵そのままの美しさだった。
江戸東京で、本当に出会えるとは……。
彼女の手が空いたのを見計らって、ジャックは彼女の名前を訊ねた。「ゆかり」。漢字では「縁」と書くのだという。その美しい名前の響きに、早まる鼓動が全身を駆け巡った。やっと出会えた運命の人だと思った。
第三幕:侍ブリュワーとの対峙
ジャックは、縁(ゆかり)の気を引くために、本場ニューヨークでラガービールを造っていることを熱く語った。そして調子にのったジャックは口走った。
「本場ブルックリンのビールを造って、君に飲ませてあげたい」と。
心を動かされた縁は、「ヒイル酒」を継承し江戸東京に広めた人物を紹介したいと申し出た。隣の醸造所に勤めている、ヘッドブリュワーのケイジだ。縁の提案に嬉しくなったジャックは、「オフコースでござる」と即答した。
縁に連れられ、隣の醸造所のドアを開ける。ジャックの目に飛び込んできたのは、巨大な発酵タンクが立ち並ぶ中に佇む大男の背中だった。藍色に染まった勝色の着物の袖を捲り上げ、パドルを腰に刺して仁王立ちしたその姿は、正に侍。その異様なまでの迫力に、ジャックの浮き足だった心は吹き飛んでしまった。
「なんでェお前さんは。客か?異邦人かい?」
振り向いた大男がジャックを睨みつけた。ジャックは一瞬逡巡しながらも言い放つ。
「ミーは、ジャックと申す!ニューヨークはブルックリンのブリュワーでござる!ミーの本場のラガービールをユーに教え申す!」
「あァん!?お前さん、俺がここ江戸東京でヒイル酒を広めた天下の侍ブリュワーだと知ってのことか!」
ジャックは思わず、「ミーの造るラガービールは、ヒイル酒より美味しいでござる!」と強がって返してしまった。ケイジはその鋭い眼光でジャックの顔をしばらく睨みつけると、「ワァハァ、ハァ、ハァ」と豪快な声をあげて笑い出した。そして一言。
「面白れぇ、勝負だ!」
「お前さんが造ったビールと、俺が造ったヒイル酒のどちらが美味いか、江戸東京中の客に決めてもらおうじゃねえか!」
突然のことに驚くジャックであったが、自分が造る「本場のラガービール」が一番だという思いは負けない。迷いなくケイジの勝負を受け入れた。
二人は睨み合いながら、密かに秘めた闘志を漲らせる。その様子を見守る縁は、ひりつく空気にハラハラとしながらも、目を輝かせるのだった。ニューヨークでラガービールを造り続けてきたジャックと、江戸東京で天下のブリュワーと謳われるケイジ。それぞれの誇りを賭けた真剣勝負が、幕を開ける。
第四幕:二人のクラフトマンシップ
師匠から薫陶を受けてきたケイジは、「ヒイル酒」に絶大な自信があった。
「青は藍より出でて、藍より青し」
師を超える弟子になれ。その精神を現す勝色の着物を纏う身としての誇りと自負を持つケイジは、この醸造対決を“世紀の日米醸造対決”と銘打ち、江戸東京中に広めようと触れ込んでいた。世間をあっと言わせる傾奇者として名高い、ケイジらしい考えである。
一方のジャックは、隣の醸造所でラガービールを仕込むことをケイジから許され、早速仕込みに入っていた。ニューヨーク・ブルックリンのブリューパブで働くジャックは、醸造設備の勝手の違いに少し手間取りながらも、持ち前の好奇心と集中力であっという間に使い方をものにしていった。
ケイジが使っている醸造設備には大きな特徴がある。ビールの濁りなどの品質を確認する一際大きい覗き窓(サイトグラス)があることだ。
「なるほど、ケイジが造るビールのうまさの秘訣は、これか……」
ジャックは、日本に来たあの日に飲んだヒイル酒を思い出しながら呟いた。難易度が極めて高い、クリアで風味豊かなビール。その秘密は窓の工夫と、品質を見極める技術の高さにあったのだ。ジャックは同じブリュワーとして、ケイジがビールに傾けるこだわりに共感と尊敬の気持ちを抱いた。
仕込みを終えたジャックは、日本のビールを堪能しようと再び商店街に繰り出した。歩いていると、一際目立つ掲示が目に飛び込んでくる。
「世紀の日米ビール醸造対決が実現!」
「本場アメリカの伝説ブリュワー ・ジャック VS 侍ブリュワー・ケイジ」
「!?」
その時、ジャックはことの重大さにようやっと気がついた。自分とケイジの対決が、アメリカと日本の面子をかけたものに飛躍している。もし負けたら、アメリカに帰れなくなるかもしれない……。そんな考えがふとジャックの頭をよぎる。弱気になったジャックは居ても立ってもいられなくなり、ビールを飲んで紛らわそうと、目の前の坂道をさがったところにある酒場に逃げるようにして入った。笑顔のいい気さくな店主に迎えられる。もう何かどうなってもいいと思い、店主から勧められたビールを浴びるように何杯も飲み干した。
泥酔したジャック。店を出たところまでは覚えている。ここは……どこだ?店の前の坂道でへたりこみながら、ジャックはぼーっと酔いに耽っていた。朦朧とする頭の中。聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「いいか、ジャック!」
「Be The Craft Revolution. クラフト革命児であれ!」
「この精神を忘れるな!」
それは、ジャックの師匠・アンディーから、かつてかけられた言葉だった。アンディは言っていた。「古き良きものを継承しつつも、新しき良きものを創造するところにこそ、真のクラフトマンシップがある」と。
ジャックは、酔いから覚めた。師匠の激励が、迷いの心を晴らしてくれた。
「この勝負、必ず勝つでござる!」
ジャックは決意を新たに頷いた。
第五幕:酒場の友情と侍の決意
ジャックは、心に決めていた。ケイジとの勝負に勝つために、侍の精神を持つのだと。ニューヨークの映画館で見た侍は、死を恐れない覚悟を持ち、戦いに臨んでいた。その姿は、生き様を物語っていた。
ジャックは侍になるために、先ずは丁髷になろうと思い立った。しかしジャックの髪は長いブルネット。この髪を丁髷にするにはどうしたらいいのだろうか。頭を悩ませたジャックは、日本にきてから親しくなった酒場の店主の元を尋ねることにした。店開きをしようとしていた店主に、すがる思いで声をかけた。「拙者の髪を丁髷にする方法を教えてくれ!」と。
「ジャック、丁髷?本気で言ってんのかい!?」
店主は、先日酒場で自暴自棄になっていたジャックを心配していた。
「話は聞いたよ、あの傾奇者のケイジと醸造対決だってな……」
あの日と同じで、自暴自棄になっているのではないか。そう思って店主はジャックを見つめた。ジャックの目は、本気だった。
「よし!わかった!どうせやるんなら、楽しんだもん勝ちだ!その勝負に俺も乗ったぜ!」
店主はそう言うと、小ぶりの刀を取り出した。「丁髷は俺に任せておけ!」とジャックを店の席に座らせ、手慣れた手つきでジャックの頭を剃り始める。バサ、バサ、と床に落ちていく髪。ジャックは感慨深い思いに駆られた。
「これで、自分も侍に成るのだ……」
綺麗になった頭の上で髷が編まれ、丁髷が整えられる。店主は整髪を終えると、店の奥から何かを取り出し、ジャックに手渡した。着物だった。ジャックは粋なはからいに感激し、目を潤ませながら袖を通す。鏡の前に立つと、そこには、威厳に満ちた侍となった己の姿があった。
「サンキューでござる!」
「これでお前さんも、侍ブリュワーだ!」
ジャックは照れ笑いをし、二人は力強い握手を交わした。「かたじけない!」と深く頭を下げて店を後にする。今まで感じたことのない熱い血潮がこみあげてくる感覚。川沿いに立ち並ぶ、蕾をつけた桜の木を眺めながらジャックは誓った。必ずこの期待に応えようと。侍の散り際のように、潔い戦いをしようと。
第六幕:ブリュワーの誇り
ジャックは、ニューヨークで絶大な人気を誇るラガービールの味わいを日本で再現しようと試みていた。ビール醸造に欠かせないのは、常に清掃を徹底し、汚染しないように清潔さを保つこと。私生活ではずぼらなジャックだが、仕込みに向き合う時だけは、完璧なまでの清掃を怠らなかった。
アメリカの醸造設備との違いはあるものの、ビールを造る上での基本原則は変わらない。ジャックは、理想とするクリアでスッキリとした味わいのラガービールを再現するために、いつもと同じように丹念に製造工程を確認しながら、我が子を愛おしむかのように仕込みを終えた。あとは、祈る思いで一ヶ月間の発酵を見守るのみとなる。
ジャックは醸造所を出ると、縁が働く併設のタップルームに顔を出した。そこにはケイジが、カウンターの真ん中に陣取っていた。ジャックは一瞬たじろいだが、持ち直してアメリカ人特有のフレンドリーな挨拶を交わす。
「ハイ、ケイジ!」
気安く声をかけられたケイジは、戸惑いながらも小さく「おぅ……!」と返す。ジャックは、ケイジが座る席から一席空けて座った。
そこへ、縁が店の奥から現れる。縁が「お久しぶりです!ジャックさんのビール楽しみにしてます!」と微笑むのを見て、ケイジはジャックの顔を睨みつけた。「楽しみにしてくださいでござる!」と返すジャック。ケイジが苛立った様子で割って入る。
「おぃ!お前!本当に上手いビールを造れるのか!?」
ジャックは、自信ありげに答えた。
「もちろんでござる!」
睨み合う二人。沈黙がしばらく続く。それを破ったのはジャックだった。右手を差し出し、ケイジに握手を求める。ケイジは、一瞬ためらったが、ニヒルな笑みを浮かべると、ジャックの手を強く握り返した。
「お互い悔いのない戦いをしようぜ!」
ブリュワーのプライドにかけて、負けられない。
一日、また一日と運命の日は近づいてくる。闘志の火は燃え上がるばかり。ビールの仕上がりを待つ間に、二人の醸造対決は、江戸東京中の話題の中心となっていった。肌寒い季節は移り変わり、時より吹く暖かい春風とともに、桜の蕾は膨らんでいく。
第七幕:世紀の醸造対決
川沿いの桜は今や満開だ。ジャックは翌日に迫った醸造対決に向けて、ビールの仕上がりを確かめるために醸造所隣のタップルームを訪れていた。
クラフトビールは、鮮度を保った最高の状態でお客様に提供することが最も大切。新鮮で風味豊かな無濾過のクラフトビールは、低い温度で保冷をしていなければ、時間が経つに連れどんどん味が劣化していく。それだけに、最終的にそのビールの美味しさを決定づけるのは、提供する瞬間だと言っても過言ではない。
その点、ジャックは何の心配もしていなかった。今回の醸造対決の会場となるのは、このタップルーム。造ったビールは常に低い温度を保った大きな冷蔵庫に保管され、そこから直接タップに繋がっている。状態は万全だ。そして何より、ジャックは縁を含め、このタップルームのスタッフを信頼していた。提供するビールのスタイルに合わせて、一杯一杯丁寧に注ぐ彼らがいれば、自分の造ったビールはさらに美味しさを増して届けられるだろう。
ジャックはスタッフに頼んで、自分が造ったビールをタップに繋ぎ、グラスに注いでもらった。出来上がったそれをゆっくりと口元に運び、味わう。ブルックリンでずっと造ってきた、完璧なラガービールに仕上がっていた。ジャックはブリュワーとして、言い知れぬ充足感に満ち溢れていた。お客に喜んでもらえるような美味しいビールを造れた。ケイジとの対決に向けて、もう迷いはない。
そうして、ついに迎えた醸造対決当日。ジャックは丁髷に着物、腰にパドルの出で立ちで登場した。「お前さんは侍ブリュワーだ!」と背中を押してくれた、酒場の店主も会場に駆けつけている。一方のケイジは、さながら歌舞伎役者のような派手な姿で、何人かの弟子のブリュワーを従え、威風堂々と現れた。二人の対決を心待ちにしていた多くのお客は、店の外にまで溢れている。熱い視線を二人に向け、祭りのような活気だ。
二人は、それぞれタップルームのカウンターに入り、造ったビールを自らお客に注ぎ始める。ビールがお客にいきわたり、次々とグラスが傾けられていく。
「うまい!」
「これぞ日本のヒイル酒!」
「アメリカのラガーも格別だ!」
「甲乙つけがたい……」
二人のビールに舌鼓を打ち、評価に頭を悩ませるお客たち。勝負の行方は投票によって決まる。次々に票が投じられ、ついに最後のお客の投票が終わった。勝敗はいかに。ジャックとケイジに緊張が走る。多くのお客が見守る中、結果発表を任された縁が前に立った。縁は、こわばった声で恐る恐る口を開いた。
「醸造対決の結果は……」
少しの沈黙。そして、縁が声を張り上げる。
「引き分けです!」
どよめく会場。そこにケイジの高笑いが響いた。
「ぐぁはっはっは!」
晴れた表情をしたケイジは、ジャックに語りかける。
「ジャック、お前さんのラガービール、見事な出来だった。」
握手を求め、右手を差し出すケイジ。ジャックはすぐさま握り返す。「ケイジのヒイル酒も美味しかったでござるよ!」
二人が交わす固い握手に、最前列で見守っていたお客が拍手を送った。外にまで溢れている多くのお客達もそれに呼応する形で拍手をし、健闘を祝う拍手の波は、大きく広がっていった。
第八幕:板橋ヒイルラガー、誕生
歴史的対決を終えたジャックとケイジは、お互いの醸造秘話を語り合うようになり、いつしかブリュワーとしてリスペクトし合う親友となっていた。二人は江戸東京の板橋とアメリカ・ブルックリンの架け橋となる、新たなクラフトビールを造ろうと思い立つ。
ヒイル酒と、ラガー。お互いの得意とするスタイルを掛け合わせたレシピを目指し、試行錯誤を繰り返して幾月……。遂に、『板橋ヒイルラガー』が完成した。板橋で育まれた二人の友情と、国と国との架け橋を象徴する、まったく新しいクラフトビールの誕生である。
ジャックは、ケイジとのビール造りをやり遂げ、高揚感に満ちていた。そして思い至った。以前から好意を抱いていた縁に、感謝と共に、自分の想いを伝えたい。
ジャックは、板橋でも桜並木の名所として有名な橋のたもとに、縁をデートに誘う。縁は少し戸惑いつつ、ジャックの誘いを断りきれずに後ろをついて歩く。桜の花は満開の時期を過ぎて少し散りかけていたが、美しいピンク色の淡い色合いを保っていた。ジャックは、桜並木が咲き誇る絶景ポイントである橋の上から、しばらく桜を眺め、語り始めた。
「ユカリ、ミーは……」
ジャックは、緊張のあまり言葉が出てこない。「桜がビューティフルでござる……」
とはぐらかした。縁は、ジャックから好意を持たれていることに薄々気づいていた。
「綺麗ですね……」
二人の間に、しばし気まずい時間が流れる。ジャックは意を決した。
「ミーは……貴方が好きでござる!」
縁はジャックの勢いに驚き、逡巡した後、静かに語り始めた。
「ジャックさん、実は……私……」
再びしばらくの沈黙。今度は縁が意を決した。
「私、ケイジさんとお付き合いしてます」
ジャックは、一瞬にして頭が真っ白になった。ケイジの笑顔が頭をよぎり、失恋の傷の痛みと混ざって心が締めつけられる。
「……」
縁は申し訳なさそうな表情で下を向いている。想い人にこんな顔をさせてはいけない。
「ケイジとなら、しょうがないなぁ……」
ジャックは笑みを浮かべ、伝えた。
「ユカリのおかげで、ミーはケイジと友情を築けて感謝しているでござる!そして、ケイジと板橋ヒイルラガーを造れて、本当に嬉しいでござる。」
そして真剣な表情に変わり、縁の瞳をまっすぐに見て、続ける。
「ユカリ、ケイジなら貴方を必ず幸せにするでござる!」
縁の表情は、明るい笑顔に変わった。
「ジャックさん、ありがとう。」
ジャックは失恋の痛みと、二人の幸せを願う気持ちを入り混じらせながら、縁に別れを告げた。散り際の桜と自分の心情を重ねながら、板橋の道を歩く。
複雑な心持ちではあるが、不思議と清々しく満ち足りていた。
ケイジと縁の幸せを願う、穏やかな気持ちになっていた。そう気がついたジャックの胸に、新たな夢が生まれる。
江戸東京の名所を巡る旅に出よう。侍ブリュワーとして、友情の架け橋となるクラフトビールを造りたい。ブリュワー人生をかけて。
ジャックの新たな挑戦が、ここ、板橋の地から始まろうとしていた。